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今回は教育がテーマとあり、町村元文部科学大臣の教育に対するご自身の経験を踏まえた持論が伺えた。なかでも教育の核心をついたところがあった。それは、豊かな時代になぜ勉強するのか?という問いに対して、町村氏は次のように答えた。「人間として意義のある人生を生きていくための基礎が教育である。これは、豊かな時代であろうと貧しい時代であろうと行わなければならない。」
また、政治評論家の三宅久之氏も、「子供は人間ではない。社会に出るまでの人格・教養を身につけてこそ初めて人間となる。それを行うのが教育である。」と述べている。両氏に共通する点は、基礎の教育と学校教育だけでない家庭教育や社会教育の重要性であろう。ところが、今注目されている教育は、学校教育だけに議論が向けられているように感じる。そこで、私自身の教育がどのようであったかを経験から話してみたい。
小学生時代、地元には有名な塾があった。日曜を除く毎日で月謝が当時3千円と安く、使う教材は学校の教科書のみでお金のかからない塾であった。雰囲気は、木造の畳部屋に木製の長机、正座で私語一切無しと寺子屋のようである。勉強方法は、先生が問題を作ったガリ版刷りの半紙を図柄など含めて、ノートにそのまま書き写して解く。間違えたところは、教科書を参考に自ら直す。それでもわからなければ、先生のところへ聞きに行く。全て解き終わると国語の教科書のある一部を声に出して朗読して終わりとなる。だから、私語一切無い部屋は、終盤になると大きな声であふれることになる。しかも、この塾の先生は怖かった。女の先生であったが特に礼儀作法には、厳しかった。塾の備品や御手洗いを借りるときも先生に許可を得なければならいない。怠るとカミナリが落ちた。けれども、週末に行われるテストでいい点を取ると文具用品やお菓子をもらい誉めてもらったことが次のやる気に変わった。まさにアメとムチである。
この塾の方針を考えると、書き写すという作業は、観察力や集中力を鍛える。自ら解き直すことでなぜ間違えたのかという好奇心が養える。声に出すことで横隔膜が鍛えられ呼吸と血の巡りがよくなる。さらに、礼儀作法などの躾(しつけ)を身につけることで社会のルールを学ぶことができる。近頃はやりの写経や声に出す国語を当時から実践していたと感謝している。
このような厳しさと優しさは、この塾に限ったことでなく家庭、社会にも問われて当然ではなかろうか。子供が家から学校へ通う過程のなかには、家庭における健康な体を作る食育があったり、社会における私たち一人一人が道を外さないように厳しい目を向けたりする。つまり、「学校」「家庭」「社会」での教育がバランスよくかみ合ってこそ、本来の教育だろう。そうなると社会人である私たちは、もう既に教育に携わっているし、学校教育に偏らないようにするのも私たち自身なのかもしれない。 |