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このたびは、講師としてお招きをいただきまして、本当にありがとうございます。杉浦正健副大臣には、大変温かいご支援・ご指導を賜っております。先生が熱心にされているポセヤというやはり同じ勉強会といいましょうか、杉浦塾といいましょうか、そういう若い方の育成をする塾を岡崎市の方でされていて、そこに講師として二、三度お邪魔をさせてもらいました。そしてまた、今年の4月にこうした大学院を開講されたということのお話を聞かせていただいて、「いつかは来てね」というふうにお話いただいていたものですから、私も楽しみにしておりました。たまたま今日は、浜松の方で子育てシンポジウムというのがありました。本気で子育てをしようというテーマで、子育てを終わられた人、今、子育て中の人、何人か私と一緒にパネリストで参加した人の中には、ショー・コスギさんもお出でになっていました。ケイン・コスギさんのお父さんですが、ケインをどうやって育てたかというような、体当たりの親子の子育て論をお話されて、感動してこちらに伺ったところです。今日はちょうどまた清水の方で夜、講演があるのですが、ちょうどその日程の中で、偶然なんですけれども、杉浦先生から、今日のこの日の時間ということで、「ちょっと遅れてもよろしければ、ちょうど浜松にいますので」ということで、お招きいただいて大変嬉しく思っております。
私自身に今日与えていただいたテーマは、「成せば成る」というテーマとお聞きしていましたが、オリンピック・アスリートとしての話、又、なぜ政治家を目指したのか、そういう話を交えながらお話をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
まず最初に、自己紹介を兼ねてお話をさせていただきたいと思います。いつも皆さんから色んなところで質問の中に、「どうしてオリンピックにそんなに何回も出たんですか」というのがあります。私がオリンピックを目指したのは、父親が「聖子」という名前をつけてくれたから目指したのです。もし私が39年の東京オリンピックの年の生まれでなかったら、多分、オリンピックは目指さなかったと思うんですね。それだけ子供にとって親というのはものすごく影響があると思っております。まずその話をさせていただきたいと思います。
今日は、親子といいますか、子育てのことについてもお話をさせていただきたいのですが、最近、壁にぶつかるというか、悩んでいることが一つあります。9月27日からこの国会は始まりましたが、皆様の温かいご支援・ご声援をいただいて7月29日に2期目の当選を果たさせていただくことができました。本当にありがとうございます。そして、また6年間の時間をいただいてスタートを切って、与えていただいたポジションが、参議院としては一番若い年齢だったのですが、36歳で文教科学委員長に就任をさせていただきました。「永田町も今までとは違って、そのポストに合った人間よりも、そのポストに置いてそのポストが似合う政治家を育てないといけないんだという思いの中で任命をした」ということを聞きまして、本当に身の引き締まる思いがいたしました。委員の中には、中曽根弘文先生ですとか、有馬先生、そして西岡先生と、3人も文部大臣経験者がいまして、いつも緊張しております。
教育改革というのが言われるようになって、特にその中で皆さんの目を引くところがあったのは、学校の中で、現場で奉仕活動、ボランティア活動をさせましょうということがカリキュラムの中に含まれています。そして今は、「生きる力」というものも学校で教えるようになり、また、自然との共生、ふれあいの中で、人間はなぜ生きるのかとか、自然というものに感謝をする心を持たなければいけないということを、学校で教えるんです。ちょっと見ると、素晴らしいことを学校で教えるんだなと見えてしまうことがあるかと思いますが、でも、よく考えると、生きる力だとか、感謝する心だとか、また人に対して優しい手や優しい声を掛けさせてもらう、奉仕の心なんていうのは、学校で教わらなくても当たり前にできていなければいけないはずです。今はそうではなくなったからこそ、学校で教えましょうということになったということなんですね。そういうところに目を向けなければいけないのに、そうではなくて、こういう問題が起きたからじゃあどうしようとか、その問題が起きた原因に目を向ける政治家が少ないのではないでしょうか。これは文部科学省にも同じように言えることだと思います。
そういう中で、自分自身が、スポーツを通じて、そして文教科学委員長になったということもあって、できる限り色んなところで話をさせていただきたいので、時間の許す限り色んな方の講演や、また自分自身も講演に出向かせていただいております。やはり学校の現場に呼ばれることが多くて、教職員の先生たちからの質問の中に、「『生きる力』はどうやって教えたらいいか」という質問も多いです。生きる力がない先生たちが子供たちに生きる力を教えなければいけないということも、これはまた大変だな、人づくりが国づくりにつながるとよく言いますが、やはりまず人材育成というのが急がれると感じております。
私は「生きる力」、物心がついたときには、もう自然にあったような気がします。それが、今の子供たちにはなかなかないというのは、やはり時代だと思います。親子の関係というものが今は何か薄くなってきちゃっているのかなと思ったときに、私自身どういう教育を親がしてくれたのか、どんな接し方をしてくれたのか、そんなことを振り返るようになりました。
その話の中での自己紹介をしたいと思います。「三つ子の魂百まで」というのが私の父の口癖でした。「3歳になる前に人間の基礎・基本というのをたたき込まなければ、その人間がどの道に進んでどんな夢を持ったとしても、絶対に通用しない」というのが父親の口癖だったのです。私の父は、先祖が宮城県から、そして母の方は奈良県から明治に北海道に開拓に入りました。両親とも北海道で生まれたのですが、父の言葉の中で印象に残っているのが、「天才というのはこの世の中に存在しないんだ。努力しなければいけない」という言葉で、父から教えられたことです。木を一本一本切って大地を開いていかなければ生活ができないという中で、昔ですから、父親は13人兄弟、母親は10人兄弟、そういう時代に育って、「何でこんな所に、お父さんお母さんは開拓に入ったんだろうか。こんなに苦労しなくても、ほぼ開かれている札幌近辺に開拓に入れば、少しは楽ができたのに」というような、そんなことを小さいころ父親に意見したそうなんです。父は大正13年生まれですが、父がその話をしたときに、父親は「今を考えて生きているからそういう言葉になるんだ」と言ったそうです。「人間というのは、50年後、100
年後にこの地域が、この大地がどうなっているかということを考えて物事を進めなければいけないんだ」というのが、父の言葉だったらしいです。父はもう少しで80歳を迎えるのですが、その言葉が50歳ぐらいになってよく分かるようになったと言ってました。そして自分自身も、人を育てるということをしなければいけないと、牧場の経営者でありながら、全国各地、口コミだったんですけれども、ある意味でドロップアウトしてしまって親御さんの手に余る、親がとても一緒に生活ができる状態ではない、施設でもなかなか預かってくれないというような、そういう過激な少年たちを牧場で預かって、そして更生させて親御さんに返してあげるようなことをずっとやっていました。そのもとで私自身も生活をしてたんですが、大変なことだなあと子供ながらに感じていました。
そして、私は父親に、「オリンピックのときに感激をして『聖子』という名前をつけて、オリンピックの選手になることを夢見て名前をつけたんだから、とにかく目標に向かって走れ」とずっと言われ続けたものですから、幼稚園に入る前から、「大きくなったら何になるの?」と言われると、私は「オリンピックになるの」というのが口癖でした。
そういう中で、自分でスピードスケートを選び、そして札幌オリンピックが開催されたのが小学校1年生だったのですが、小学校1年生のときに見た札幌オリンピックが大変素晴らしくて、自分自身も「こういうものに参加ができるんだな、これを目標とすればいいんだな」と、ある意味で簡単な気持ちでオリンピック選手を目指すことになってしまいました。でも、目標があっても、それを達成できるのは、ほんの一握りなものですから、父親は、本当にその目標に向かって生きるような人間形成をこの牧場の中で育てたいということで、兄弟すべて厳しい訓練の中で育ちました。私は特に父親が40を過ぎてからの子供ということもありまして、どちらかというと末っ子の40過ぎの子供というと、大体お父さんというのは甘やかせがちなんですが、父親は、「将来のこの子のために今厳しくしておかなければいけない」とスパルタ教育で育ててくれました。
さて、私は3歳から乗馬を始めました。なぜ乗馬なのかというと、それは、父親が競争馬の育成をやっているので、一番教えやすかったということと、自分自身の仕事を見てもらいたい、わかってもらいたい、本当の意味での「生きる力」というものを分かってほしかったからだそうです。
まず最初に馬に向かって挨拶をする。これは基本なんです。そして訓練が終わると、自分の手で餌をつくって与えて、ブラッシングして、水をあげて、放牧をさせてやって、初めて自分たちのご飯が食べられる。この順番を間違えると大変なことになりました。
そして、父親が一番口うるさく、ここが大事なんだと教えてくれたことは、私の基本になっているのですが、「どの職業に就いている方も、命より大切とまではいかないけれども、それと同じぐらい大切なものを持って仕事をしているはずだ」ということでした。私たちの場合は、牛がおいしい牛乳を出してくれて、そしてサラブレッドが一生懸命走ってくれて、農作物が実を結んでくれて、初めて生活があります。人と人というのは、言葉が通じるので、ある意味で心が通じなくても何の問題もなく過ぎ去ることができるかもしれない。でも、毎日毎日馬や牛と生活する私たちにとっては、物を言わない動物や農作物に対して、どれだけの愛情と感謝の気持ちを込めて毎日接することができるか、その真剣勝負ができない人間は、ここで生活をすることができないと常に厳しく言われました。義務づけられていたことの中に、自分が飲む牛乳は自分の手で搾乳をして、「感謝の気持ちを込めて牛乳を牛からもらってきて、そして飲みなさい」とこれが毎日の生活の中で当たり前なことでした。『嫌だな』とか、『やだ、面倒くさいな』と思うと、やはり動物は子供をなめる性質を持っているので、そんな気持ちの人間をそばに招こうとは絶対しません。でも、心からその動物にわかってもらえる気持ちがあると、すんなりと受け入れてくれる。それが大切なんだということを父親は教えてくれました。心と心が通じて、初めてその人のものになっていく。それが人とだったらわからないかもしれないけれども、動物とだったら、これだけの違いがはっきりとしている。人間は一番最後にこの地球上に出てきたものなのだから、常に感謝という気持ちを忘れずに生きなさいというのが、両親の教えでした。
そういう意味では、本当に厳しく育ててくれて感謝しています。小さいころは、『何でこんなに厳しいんだろうか』と悩んだこともありました。しかし、あえて厳しくすることによって、20年後、30年後に感謝をされたいという思いがあったようです。
そして、もう一つ、私はそういう厳しい両親に反抗をしませんでした。それはなぜかといいますと、子供に対してものすごく厳しいことを言う人だったのですが、それ以上に自分自身に対しても大変厳しい姿勢で生きていたからです。牧場の仕事を通じて子供ながらに父の姿を見たり、そして母親もそれに耐えて、父親についていっている姿を見たとき、やはり人間というものの素晴らしさといいますか、親というもののありがたさを知らず知らずのうちに教えてくれました。
それから、私は末っ子ですから、みんなが年上になるのですが、年上の人に敬語以外使ってはいけない、これは当たり前のことなんですが、今は、親子の関係で敬語を使わない人がたくさんいると思います。うちの場合は、親に対しても兄弟に対しても、絶対に敬語以外使ってはいけませんでした。
今、なかなかそういう頑固な親父がいなくなったから日本はだめになったんだなんて言いますが、ある意味で、そういう頑固親父に育てられた最後の年代なのかなと思えば、貴重な経験をさせてもらったなと思うのです。
大自然で牧場で育ててもらったものですから、寒い日は大変でした。又、もちろん色んな意味での辛いことというのは当たり前だったのですが、やはり今の時代、考えなくても勉強する場があったり、そんなに努力しなくてもご飯が食べれるようになったということが、やはり世の中を何か狂わしてしまったのではないかと思っています。だからこそ、人をつくるということがこれから大事なんですが、昔は、時代背景が「生きる力」がなかったらとても生きていけないし、闘わなければ生きていけませんでした。今は、守られ過ぎているということを考えた中での子育てをしていかなければいけないということは、ある意味で大変な時代が来てしまっているなと思っております。
私もそういう親に育ててもらって、そしてオリンピックを目指したのですが、7回オリンピックを目指しました。これは父親に言われたのではないんです。なぜかというと、健康体に恵まれなかったからなんです。小学校3年生のときに腎臓病を患いまして、2年間運動ができなくなりました。腎臓病というのは、食事制限がものすごく厳しいものですから、食べるものに対して感謝する気持ちが、病気によって私の中に芽生えました。そして、もともと体が弱かったものですから、高校に入ってから、今度は肝臓病を患いまして、そして同時に、ストレスを表に発散することのできない子供時代だったことが悪い方向に向かってしまいまして、ストレス性からくる呼吸不全症といいまして、呼吸する筋肉が停止してしまう病気にかかってしまい、高校3年生のときに4日間ぐらい意識不明のまま生死をさまよいました。そしてどうにかこの世に返ってこれたんですが、呼吸する筋肉がとまってしまうという不思議な病気で、その後遺症でどんなにトレーニングしても肺活量が
2,500を超えることがないという障害を持ちました。そこで、まだ一度もオリンピックに出てない高校3年生のときに挫折をしかけたんですが、『一度でいいからオリンピックの選手に』という思いが私の中にあったので、とにかくリハビリをして、呼吸器の克服をして、そして腎臓と肝臓病のケアをしながらオリンピックロードの闘いに立つことになったのです。
そして、リハビリをやっていく中で、ある出会いがありました。それが今の政治につながる道の原点だと思うのですが、やりたくてもやれない体の不自由な子どもたちがいっぱいいる施設で入院をし、そしてリハビリをしたことでした。小学校3年生のときに腎臓病をやって、白血病だとかネフローゼで2人の友だちが天国に行ってしまいました。でも、小学校3年生の時には死というものをまだ理解できませんでした。その2人の友だちが、たった9年間しか生きてないのに、人生というのは与えられた年月を全うするものなんだなということを最近改めて感じています。その2人は苦しかったのに、最後の日まで明るく生きていました。「私たちの分まで頑張って生きてね」というのが、2人の共通の言葉でした。そういう中で「生きる力」というものを自然に私は感じることがありました。そして今度は高校生になって、また社会人になっても、リハビリ生活をする体になって、初めて一生懸命に頑張っている人たちがいるということを気づかせてくれました。同時に、私はそこで打ちのめされることになるのです。『オリンピックを目標として一生懸命自分が頑張っているのに、病気があったり、怪我があったり、何でこんな障害を持ってしまったんだろうか』、病気や怪我を常にうらんでいました。でも、考えてみたら、生きていることも素晴らしいし、オリンピックの選手になれるかもしれないというところで闘いができるところにいることも、すごく幸せだなということを感じさせてくれました。足がなかったり手がなかったり、また本当に生まれながらにして障害を持って、そしてずっとベッドの上で、いろんなところに管を付けながら、それでも頑張って生きている子どもたちがそこにはいました。「何でオリンピックの選手がこんなところにいるの?」ということも車椅子の子供たちは言ってくれましたが、「私はこういう経験をして、それでもオリンピックの選手になりたいからリハビリが必要なんだ」と言うと、「すごいですね。僕たちの夢をかなえてください」と言われました。外に出れない子供たちは、一度でいいからメダルを首に掛けてみたいというのが夢だったのですが、それを私に託してくれました。「羨ましい」という言葉もありました。「羨ましい」という言葉で私はドキッとしたのですが、どんな病気をしたって、外に行って一生懸命頑張ることのできる体、「羨ましい」という言葉につながるんですね。私は本当に大変良い経験をさせてもらったなと思っています。
両親も含めて、やっぱり病気や怪我になることというのは辛いですし、「何で家の子が」ということを思ったと思います。そういう施設に行ってリハビリをやらなければいけない、それは周りの人たちにはもちろん分からない世界でした。「橋本聖子イコール強い人間」でなければいけないというのが、スポーツ・アスリートの鉄則ですから、とにかく強いイメージをつくり上げることに徹して、入院していることを隠してきました。
実は病気がひどくなる前に、母親は、私が小さいころから病気がちだったので、「オリンピックに1回出たらもうやめようね」と言ってたんですね。でも、そういう体の不自由な子供たちが一生懸命に後押しをしてくれるようになって、そしてその親御さんたちから私の親に向けて、「うちの子供はリハビリをやらないといけない、また一生車椅子での生活ですが、橋本選手が一生懸命に頑張っている姿を見て、夢と希望を持って頑張れる子になってくれました」というような、そんなメッセージをもらうと、やはり親は逆に変わりました。特に私の母親は、どんどん、どんどん、オリンピックに向けて体を酷使することを勧めてくれました。もちろんそれは辛いことだったと思いますが、人間というのは、目標が大きくなればなるほど、神様がいるかどうか分かりませんが、やはりその人にふさわしい壁を与え続けるというのは、これは当たり前だと思います。何の壁もない人生というのは、逆にあり得ないことであって、目標が大きければ大きいほど乗り越えなきゃいけない壁が大きくなるというのは当たり前です。でも、その壁が厚かったり高かったりするということは、乗り越えられる能力があるから引き出しなさいということを教えてくれているのだと思います。そう考えたら、病気や怪我という経験をして、そしてオリンピックを目指させてもらえる、「能力があるから、もっともっと上を目指しなさいということを、お前に対しては病気や怪我で教えてくれたんだと思えば、ありがたいことじゃないの」というのは母親の言葉でした。私は『そうだな、ほんとにありがたいな』と、素直な気持ちで受けとめることができました。
そして、実は、私自身がやはりもう無理だと思って臨んだメダルでしたが、気持ち一つで人間は変えることができるんだなと思いました。『この子供たちにどうしてもメダルを』という思いの強さが、私を応援してくれたおかげで、ぎりぎりの状態でしたが、27歳のときに銅メダルを獲得できました。でも、実はその前の年に、体がボロボロになって膝を手術したり、腰の骨を骨折したりですとか、そんなことの経験があっての、奇跡的なメダル獲得でした。それをさせてくれたのも、やりたくてもやれない体の不自由な子供たちが、本当に生きることの素晴らしさ、頑張ることの大切さということを身をもって私に伝えてくれたからこそ、7回のオリンピックにつながったと思っております。
また、私の義理の兄も北海道選出の衆議院議員だったものですから、政治や福祉というものにはとても関心がありました。特に私が病気や怪我で悩まされてそういう施設を回るようになったのも、また、そこを紹介してくれたのも、衆議院議員の私の義理の兄でした。政務次官をやったことがきっかけで、一生懸命福祉に取り組んでいた毎日だったのですけれども、こんな素晴らしい仕事もあるのかということで、私はいろいろと聞かせてもらっていました。そして、「そういう子供たちのところに行って、力を与えるということをさせてもらうのも勉強の一つなんだよ」と言われ、シーズンオフにはメダルだとかスケート靴を持ってそういう体の不自由な子供たちのところに出向くことを、兄と一緒にさせてもらっていました。
そういうことがきっかけで、福祉の仕事をやってみたいということをマスコミを通じてコメントしてましたが、30歳になって、「政治というのは黒いとか汚いとかと言われているだろうけれど、お兄さんもいることだし、これから頑張ってみないか」というのが、当時の森幹事長からのお誘いでした。「はっきり言って、ずっとスポーツをやってきた人間がパッと政治の世界に入るというのは、大変なイジメがあるだろうし、苦労するだろうけれど、でも、そこはスポーツ・マインドで乗り越えてほしい」というのが、森幹事長の言葉でした。そしてもう一つは、「すぐに役に立つとは思わないから、気楽に来い」と言われました。「やはりこれから永田町も、21世紀の子供たちに夢をつなぐことのできる議員を育てていかないといけない時が来たと思うからこそ呼ぶんだから、これもやらなきゃいけない、政治家だからこうだと、そんなに肩に力を入れずに、今までやってきたことと経験を生かして、どんどん全国を回って、子供たちの声を聞き、そしてやりたいと思う仕事をやれ」ということが最初のお話でした。私も『私でよければ』という気持ちで国会に出させていただいくことになりました。
それからもう6年経って、まだたったの6年ですが、文教科学委員長という立場を与えられて、そしてさらにまた子供たちへの教育というもの、またスポーツを通じての人とのふれあい、そんなことで私は今、やりがいを感じております。
特に今、先ほど言ったボランティア活動を学校の現場でやるようになりました。だからこそ、「永田町の方も、現場にしっかりと目を向けてくれないといけないので、一緒に行ってくれ」という声が多いですね。それでやはり中学生、高校生が学校の授業の中で奉仕活動ということで進めているところもあります。そこで施設に行って子供たちがどういう奉仕活動をしているのかを見ますと、実は、おじいちゃん、おばあちゃんとケンカしている子供たちもいるのです。「大きなお世話だ」と言うんですね。なぜかというと、学校の授業で来ている。『やってあげている』という気持ちなものですから、おじいちゃん、おばあちゃんたちは、特にまだ体の自由な人たちは、「そんなんだったらやってもらわなくていい」ということになるのは当たり前だと思うんですね。やっぱりなぜボランティアを自分たちがやらなければいけないのかということの本当の基の部分を教えることが、まず最初に大切なのだなということを改めて感じております。
やはり子供たちには、誰よりも自分自身を愛することのできる人間になってもらいたいと思います。自分を愛することができなくて人を愛することはできないですし、そして守ることはできないと思います。私自身も、やはり自分自身がかわいいからこそ、一生懸命頑張る自分をつくらなければいけないと思いました。やはり今、子供たちにこの仕事を通じて教えたいと思うことは、自分自身を誰よりもかわいいと思ってほしいし、愛してほしい。そして自分を愛することができるようになった子供は、それだけ自分を高く持っていきたいと思うから、目標と夢を必ず掲げると思います。そして今度は、夢や目標を掲げると、そこに到達するにはどうやったらいいのかと必ず人間は考えます。そして強い心とたくましい体を必ずつくり上げていきます。そして、強い心とたくましい体ができた人間は、絶対に優しくなれると思います。私は、鉄人と呼ばれて、引かないとか、そんなようなイメージでずっと画面を通して見られてきたと思います。でも私は、スポーツを通じて、そして病気をして体の不自由な子供たちに会って、強くたくましくならなければいけないと思ったからこそ、私も優しい気持ちになれました。そしてその優しい心というのが、ある意味で人間の心で余裕になって、どうにか人の役に立ちたいと自然に思うのです。その余裕となったやさしい心が、初めて人に対して優しい手や優しい声に変わる真のボランティア精神になるのではないでしょうか。形だけのボランティア活動ということではなくて、真の心というものをまず最初に教えて、そして学校の現場で福祉活動、生きる力、自然との共生、感謝ということを体得してもらわなければならないと思います。
これから、一生懸命に皆さんのご指導をいただきながら、場所はオリンピックの世界から政治の世界へと変わりましたけれども、全く同じ気持ちで一生懸命に頑張ってやっていきたいなと思います。
私は、政治の道に入ったときに、いろいろと言われて傷ついたこともありました。それは、政治家のプロフィールでは、ほとんどが東大の卒業生であったり、早稲田、慶応卒、また官僚の方が政治家になることが多い中、私は駒沢大学の附属の苫小牧高校を卒業して、社会人になり、そして政治の道に進みました。高校を卒業して政治家になった人はもちろん少ないですし、そしてそういう人間が委員長になったのも稀だと言われたことがあったのですが、それも最近は気にしなくなりました。やはり自分を持ってといいますか、自信を持って、自分自身が生きてきたこと、そしてこれからやっていきたいこと、その信念さえあればやっていけるのではないかなと、この世界に入って感じた一つでもあります。
人間、与えられた位置というのはもう決まっているんだなと思うことがあります。いろいろ悩んだんですけれども、やはり国民の皆さんの声を聞き、そして正しい方向に進む、そういう仕事をさせていただいて、政治というものがこんなに素晴らしい仕事なんだということは、改めて2期目の選挙戦を通じて感じました。
「自分の子供をオリンピックの選手にさせたいか」という質問に、絶対にさせたいから娘に私は「せいか」という名前をつけました。ちょっと前までは『では、政治家にさせたいか』ということを思って悩んだこともありました。というのは、私はそれが自分で納得のいかない一つだったのですが、『政治家は大変なので子供にまでその道はどうかな』と思っていた自分に実はすごく腹が立っていたのです。自分自身がやっている仕事を自信を持って子どもに勧めることができない人間になったらよくないな。それだけ自分自身の仕事をしっかりとやってないということになるんだな。私は、オリンピックを通じて、「こんなに厳しいことはない、一つの目標にたくさんの選手が向かって、たった一つしかとれないメダル、その感動というものを味わうために100
、200
の努力をして、そしてやっと一つの感動」と思っていました。でもそれが素晴らしいからと7回も目指しました。それを娘には『ぜひやってもらいたい』という思いがあったんですけれども、政治は『苦しい、かわいそうだ』としか思いませんでした。でも、こんなに厳しい世界、政治という仕事だからこそ、あえて今、本気で娘には、また子供たちには、政治家というものに進んでもらいたいと思うようになりました。
やはり名前を書いてもらうという厳しい選挙戦をやったからこそ、そういう気持ちになれたのかなと思います。やはり国民の皆さんから選んでいただいたということが、いかに責任のある仕事か、ほんとに中途半端な気持ちでこの仕事は務まらないと思います。二十数万の皆さんの票をいただいて、感謝という気持ちが改めて私の中に生まれました。これから、一生懸命に政治家として認めてもらえるような人間になって頑張って務めたいと思います。
どの道に進むにしても、どの壁も大きいと思います。でも、その目標に向かっていく気概というものがあれば、どんな道でも通じるというのが私のモットーです。ぜひ皆さんもこれから目標に向かってしっかり研鑚をしていただいて、自分自身の人生というもの、21世紀の子供たちに素晴らしさを与えていただきたいなと思います。
今日は、こうしたお時間をいただきましたことに心から感謝を申し上げまして、講演とさせていただきます。本当にありがとうございました。(拍手)
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