54年東大卒。バージニア大大学院、フレッチャ−・スクール大学院に留学、極東情勢について報告したのが国連政治局幹部を感心させ、57年国連事務局にスカウトされた。
日本が国連に加盟した翌年で、日本人としての国連職員第1号。政治安全保障局の政務担当官として、ハマーショルド、ウ・タント両事務総長の下でハンガリー事件、キューバ事件、印パ紛争などの情報収集、政策立案にあたった。62年国連職員組合委員長も務めた。72年行政担当に移り、国連大学設立委員会の事務長として、同大学の東京誘致決定に「陰の主役」の役割を果たした。
74年には、外部からの人材登用によって体質改善を図ろうとする日本外務省に引っ張られ、国連代表部参事官、行使、大使を務めた。79年事務次長(広報担当)として国連に戻る。87年軍縮担当の事務次長となった。
92年1月にカンボジア暫定統治機構(UNTAC)の国連事務総長特別代表に任命され、ポルポト派の妨害にもかかわらず、自由選挙の実施を通じて新生カンボジアの誕生に導いた。94年1月より95年10月まで、旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表として、激しい内戦の中で国連史最大のPKO活動(要員約4万5千人)の長として、平和維持の原則を守るべく尽力した。95年11月より国連事務総長特別顧問。96年3月より人道問題担当事務次長となり、97年12月退官。98年4月から99年2月まで広島平和研究所初代所長。99年7月より日本予防外交センター会長。人口問題協議会会長、日本国際連合学会理事長、群馬県立女子大学外国語教育研究所所長、立命館大学大学院で客員教授も務める。
著書に「国際連合」(岩波)、「国連ビルの窓から」(サイマル)、「国連から見た世界」(サイマル)、「An Agenda for
Hope」(サイマル)、「忍耐と希望―カンボジアの560日」(朝日新聞)、「平和へのかけ橋」(講談社)、「生きることにも心せき」(中央公論新社)などがある。他に多くの文を"TheYale
Review"、"The Journal of Social and PoliticalThought in Japan"、"The Japanese
Annual of International Law"、"The Jornal ofthe International Political Science
Association"、"Asteion"、"Speaking
ofJapan"、"世界"、"潮"、"中央公論"、"文藝春秋"、"外交フォーラム"、"国際問題"、"International Peacekeeping"(summer
1994)、"Survival : theIISS Quartely"(winter 1995-1996)、"Fordham International Law
Journal"(December1995)等に書いている。