スタッフブログ

2017.10.16

義憤、そして営業と政治


 私にとっての義憤とは、何か。自問してみた。自分自身では、女性であるということで制限されたり、犠牲になったり、我慢させられたりすることに漫然と不条理を感じていた。が、それは個人的な事象に留まるものであった。義憤に至ったといってよいのかわからないが、政治の勉強をしてみようというきっかけになったのは、「何も言えず犠牲になっているもの」の実態を知ったことだった。ここ数年、教育学を学び、子供、女児、女性、貧者、教育を受けられないものなど、虐げられているものが日本においても非常に多いのだという事実を知ったのだ。その中でも特に、多くのあかちゃんが死に追いやられていることを知って、ショックを感じた。堕胎というのは、小さなあかちゃんがズタズタに切り刻まれることである。皆から慈しまれるべきかわいい赤ちゃんが、そのような残忍な対応をされているのだ。これまで、堕胎について、リアリティをもって真正面からとらえたことはなかったが、よく考えてみると非常に惨たらしい。堕胎の一年の数は、地方の都市の人口に匹敵する。まさにアウシュビッツのような残酷な事実である。我々が平静な日常が繰り返されている裏ではこのような実態がある。私は、その実態を見捨てておくことはできないと考え、なにかアクションが取れないかと、ロビー活動を行うことにした。
 ロビー活動では、主に堕胎と少子化と結びつけるロジックを使ってきた。社会的なコンセンサスを得るためには、功利的ロジックが有効ではないかと思っていたからだ。しかし、一方では何か違うのではないかという気がしていた。堕胎がこのように蔓延しているのは、本来的には、社会における女性の地位の低さや、教育の不備が問題であると理解していたからだ。しかし、このことを表面に出すのは、二項対立的となり批判を導いてしまう。そこで、堕胎と少子化と結びつけることによって、社会全体の効用をもたらすものとして訴えてきた。おそらく、野田議員の少子化におけるロジックもそのようなことではないかと推察される。
 今回、廣瀬先生の授業では、上記のロジックの限界を感じさせられるものがあった。功利的ロジックでは人を動かせないということである。人を動かすには、相手の琴線に触れる内容も必要である。今まで私は、客観的な論理を重視する世界で生きてきたので、転換を迫られる思いがした。さらに、教えられたことは、相手に信頼がおける人物であると認識されなければならないということである。これについては、一般的に女性に求められるものではないので、即座に自分のこととしてとらえることはできなかった。今後の実践を通じて、自己変革を遂げていきたいと思っている。


up